私、大きくなって祝言あげる時はふーちゃんのところにお願いするんだ。

幼馴染と指切りをした。
それは、あまりにも幼くて眩しい未来への約束。




夜虹蝶奇譚 連作番外4―縁の色は何色か―





しとしとと、雨が降っていた。
ここ数日続くそれに、諷香(ふうか)は溜息をつく。
雨は嫌いではない。湿った匂いも、音を吸う静けさも好ましい。
だが、こうも続くとさすがに憂鬱になろうというものだ。というか、それ以上の問題のせいで気が重い。
「境内のお掃除もできないし。せっかくの紅葉が散っちゃうなぁ」
そうぼやくも、返る声はない。
現在、神主である父は所用で留守にしている。おそらく後一週間は戻らないだろう。
「はぁーあ、何もそんな時に起こらなくても良いのに」
もう何度目になるかわからぬ溜息を吐き出し、見上げた先の空。
曇り、渦を巻く夜の雲を『魚』がフイと横切った。

「……私は守護と捕縛が主な仕事なんだよう。調伏は駄目なんだよう…」
泣き言を言ってみるも、魚が聞き届けた様子はない。
瞬きしないまんまるの瞳。はくはくと呑気に開閉する分厚い口。その顔が、無表情のまま近づいてくる。
生臭い息と共に、細かい歯が視界いっぱいに広がった。魚の口先が今にも諷香の眼球に触れようとする。
「だからあ、駄目なんだってば」
――シャン
と、鈴の音が響く。
まるでその音を厭うように、魚は華やかなヒレを翻してゆったりと尾を向ける。
「……駄目なんだよう。人の目を獲っちゃ」
魚の口元から一筋ツ、と垂れる紅。日暮れに間に合わなかった誰ぞのものか。あるいは死体のものか。
せめて、後者であってほしい。死した者を冒涜する行為なのは理解できでいるが、そう思わずにはいられない。
どうか生きた者から光を奪ったのではないと思わせてほしい。
困ったような、あるいは悲しむような声で去りゆく魚に抗議していた諷香は袖口をまさぐる。
取り出したのは、紅色の組み紐だ。先端には、紙垂(しで)と鈴が結わえられている。手慣れた様子でそれを掌に巻き付け、鈴の重みを利用してゆるりと宙を回す。
最初はゆっくりと、徐々に速度を上げて。動きに合わせ、諷香は呪い(まじない)を紡ぐ。
「泡沫より外れし者よ」
シャン、と鈴が鳴った。
傘から外れた鈴の表面を水滴が滑る。
魚が体を揺らめかせて振り向いた。感情の見えない魚類の瞳が諷香を見つめる。
シャンシャンシャン、と間断なく響く鈴の音。
うるさいほどに響いていた音色が不意に途切れる。同時に、諷香の手から放たれた紅紐が孤を描いた。生物のようにうねった紐は、宙をたゆたう魚を囲う。明らかに物理法則を無視した動きで紐は円を成し、その内部に魚を捕える。
「我が手を見よ・樹海の鈴鳴りに耳を澄ませ・日輪の鐘は晩鐘と相成る」
言霊を切り、諷香は小さく息を吸う。キシリ、と空間が鳴った。
「破楔(はせつ)壱式・朱(あけ)綴り」
結びの言葉が紡がれると、魚もろとも紐の円が縮まる。その動きは一瞬で、紐がぱさりと地面に落ちた時には魚の姿は影も形もなかった。
「はーぁ。父様が帰ってきたら、ちゃんと滅してもらわないと」
今夜何本目になるかわからぬ紐を拾い、袂に納める。魚妖が封じられた証拠に、紐の色は魚と同じ透き通った色に変じていた。そして、もうこの鈴が鳴ることはない。
まだ『鳴る』鈴のついた紐の数を確かめ、諷香は「ううん」と唸る。残数は十本。余裕があるといえばあるが、帰路を考えれば少し不安でもある。扇や神楽鈴も持ってきてはいるが、正直言って巫女神楽は結界術より苦手なのだ。
それに、今宵は何だかいつもより騒がしい。
頭上に渦巻く妖雲を見上げ、諷香は眉を寄せた。
今もなお、湧き上がる積乱雲に似た重々しい雲。その周囲をくるくると舞い踊りながら優雅に泳ぐ魚影は、事情の知らない者から見ればさぞ美しかろう。
もっとも、諷香にすれば悪夢のような光景だが。
「…やっぱり、一度戻ろう。神紐の補充もしたいし」
誰にともなく呟き、諷香は踵を返した。瞬間――。

背筋を悪寒が駆け抜けた。

「……っ!」
気が付けば、諷香は走っていた。逃げるためではない。仮にも妖異に関わる者として、放っておいてはいけない。
そう感じるに十分なほどの暗い気だった。
力を感じたのは一瞬だが、強大なぶん起点を読み取ることは容易い。
撤退を促す本能を意思で捻じ伏せ、諷香は夜の町を駆けた。あぜ道を超え、通りを横切り、長屋の角を曲がる。泥水を跳ね上げながら辿り着いたのは、どこぞの武家屋敷の裏門だった。

「だーかーらー! わざとじゃないって言ってるでしょう! というか、隠れ場所わかってたんなら言いなさいよ! そしたら余計な損害出なかったのに!」
「請けたのはお前だろ。なんで俺が手伝ってやらにゃならんのだ」
「ぐ…そ、それはそうだけど」
「というか、お前はもっと細かい制御を覚えた方が良いぞ。出力だけで技術がついていってないようじゃ、そこらの武闘家にも負けちまうし」
「う、うるさい! わかってるわよ!」
「わかってたら、憑いてる霊ごと掛け軸燃やして追い出されたりしねぇだろ。ったく、雨も降ってるのに」
「それよ、それ! あんたこそ、原因はわかったの?」

どうやら言い争っているのは、一組の男女のようだった。全身黒装束の男と、旅装束姿の少女。
外見は人じみていても、女の方は人間ではない。だが、どうも会話からして同業者のように思えた。
そうなると、彼らの立ち位置がわからない。人に害ある者ではなさそうだが、異様なのは明らかなため放っておくのも気がかりである。
「えっと…」
立ち尽くした諷香の漏らした声に気づき二人が振り返る。
男の方は、被る黒布のせいでハッキリとした容貌はわからない。だが、異形の気配を纏った少女の方には見覚えがあった。
「いっちゃん?!」
驚きの声をあげれば、少女――黒月十六夜も大きな瞳を見開く。
「え……もしかして、ふーちゃん?!」
その呼び名で確信した。目の前の人あらざる少女は、かつての幼馴染であると。緊張していた諷香の全身から力が抜けた。
しかし、確か黒月はもう半年以上も前に何者かに滅ぼされたと聞く。それとも、彼女以外に生き残った者もいたのだろうか。それに、諷香が最後に会った時の十六夜は確かに人間だった。
今の彼女は中身はともかくとして、器がまったく違う。
「いっちゃんは、無事だったんだ。でも、その……」
諷香の言葉に、十六夜は何とも言えない複雑な笑みを浮かべた。
「……うん、まぁ色々とあって」
踏み込むことを躊躇うような微苦笑に、諷香はそれ以上の言葉を飲み込む。
彼女は命は助かった。だが、言い換えればそれは『命しか助からなかった』ということなのだ。
家族も、居場所も――そして、恐らくは人としての肉体も全てを失った。
ここまで笑えるようになるのに、どれだけの時間と心の血を流したのだろう。
今は、その瘡蓋を剥がす時ではない。そう考え、諷香は話題を変える。
とりあえず、友人の隣に暇そうに立っている人物に目を向ける。
「えーと。それで、そっちの人は?」
「ただの連れよ――あんたね、挨拶くらいしなさいよ」
後半は諷香ではなく、その連れに向けたものだ。険のある少女の言葉に、男がちらと視線をやる。何となくだが、呆れているように感じられる動作だった。
「何よ?」
「いや別に。相変わらず気分の切り替えが早いな、と」
「う、うっさい!」
そのやりとりにくすりと笑い、諷香は頭を下げる。
「すみません。先に名乗るべきでしたね。私は神凪諷香。近くにある吹鬼(ふき)稲荷に仕える巫女です」
「ご丁寧にどうも。ハクだ」
薄い唇から紡がれた短い挨拶。黒衣の陰から見える細い顎は異様に白く、埋葬前の死人を彷彿とさせた。
この国では、庶民は例外を除いて名字を名乗れない。それでも、彼が十六夜と同じ退魔師だというなら、それは数少ない例外だ。家名を重視する生業で名字を名乗れないとは、何か事情でもあるのだろうか。
「嫌なら構わないのですが…お顔は見せてもらえないんですか? 適切な信頼関係の構築には必要なことだと思うのですが」
ひくり、とハクの口元が引きつった。ふわふわとした喋り方や雰囲気で勘違いされがちだが、諷香は決して臆病ではないし、世間知らずの甘ちゃんでもない。言いたいことはしっかり主張するし、気になることは確認する。
「随分としっかりしてらっしゃるようで」
「ありがとうございます。よく言われます」
さらりと皮肉を流してニコニコする諷香に、観念したようにハクが布を取り去った。
「あ…」
雨にけぶる銀蒼の髪。炯々と輝く朱金の眼(まなこ)。
鬼。
人を喰らい、恐怖を撒き散らす魑魅魍魎の中でも最悪のもの。
なるほど、自分をここまで走らせた正体は彼の方だったかと諷香はひそかに得心する。だが――。
「…どうしてですか?」
「何がだ」
「あなたは、人なのにどうしてそんな姿をしているのです?」
近くで見れば、間違うことなどない。この青年は妖鬼悪鬼の類ではなく、確かに人間だ。
心底不思議に思い問いかけると、青年がわずかに目を見開いた。そうしてまじまじと諷香を覗きこみ、唇の端を歪める。どうやら笑ったようだとわかるまで数瞬かかった。
「なるほど。なかなか良い『目』を持っているようだ」
「は…? えっと」
今のは褒められたのか。戸惑う諷香の反応を気にせず、青年は天を仰ぐ。どうも、諷香よりそっちの方が気になるらしい。
「まぁいい。自己紹介も済んだところで聞きたいんだが、ありゃなんだ?」
「あ、私も町に入った時から気になってた。ふーちゃん、あれ何?」
二人が指さした先には、夜空を覆う厚い雲。空を舞い、月を背に泳ぐ魚影。
「ああ、あれは――」
そこでハタと気づく。目の前で佇む幼馴染は、退魔調伏にかけては最高峰と名高い黒月の術者だ。
「いっちゃん、協力して。代わりに、うちのお社を宿代わりにして良いから」
手を握り、真剣に頼み込む諷香に十六夜は目を瞬かせた。
「い、良いけど…一体何があったの?」
「だよね。うん、大丈夫。今から話すよ」


目捕塚という塚がある。その昔、諷香の先祖がとある妖を封じた塚である。
ことの始まりは三日前の嵐だった。その嵐が原因で、塚が壊れたのだ。
塚に封じられていた妖は、人の目ばかりを取るという怪魚。なお悪いことに、その妖は嵐と共に発生した雲に巣を作り、子を産み、町に稚魚をばら撒いた。陽の光に弱いのが幸いし日中は姿を見せないが、日が落ちると稚魚は餌である人間の瞳を求めて彷徨うのだ。


「それで? 大元を絶てないから、稚魚を封じてせめてもの被害を防いでいた、と?」
「ううんとね、親だけなら封じることは出来るんだよー」
紐の長さを調節しながら告げれば、雲を睨み付けていた十六夜が絶句した。
「え?」
「ただねぇ、子供は残っちゃうの。そうしたら、そのうちのどれかが次の『親』になっちゃう。キリがないの。だから、解き放たれて子を産んだら一斉に滅すしかなくて。でも稚魚も散ってて、一か所に集まらないからどうしようもなくて」
はぁ、と諷香は頬に手をあてて溜息をつく。
「困ったよねぇ。お奉行さまに言ったらお触れを出してくれたから、みんな夜の外出は避けてるんだけど。父様も戻って来るまで時間はかかるし。私、調伏はからっきしだから、いっちゃんに手伝ってほしいな〜って」
「それは良いんだけど。…困ったわね、私もあの小魚を集める術は持ってないの。出来るとしたら、流(ながれ)家みたいな水を操る術者だけ、ど…」
と、そこで十六夜は連れの青年を振り返った。
「あんた、確か水も使えるわよね? 手伝ってよ」
言われた青年は、小さく肩をすくめた。あまり乗り気ではなさそうだ。だが、十六夜の言葉が本当ならぜひとも協力を願いたい。
「駄目、ですか?」
「…まぁ、構わん」
自ら振っておきながら、彼の返事がよほど意外だったのだろう。十六夜が驚いたように口元に手を当てた。
「あんたが? 素直に他人に協力するなんてどういう風の吹き回しよ」
「別に。慧眼の主には、それなりの敬意を払うぜ俺は」
しれっと言うと、ハクは諷香に向き直った。
「じゃあ、俺があの小魚供を雲の方に集めるから、あんたが結界で閉じ込めるってことで良いか?」
「あ、はい」
「んで、後は私が残らず滅せれば良いのね!」
「そういうことだ。精々頑張れ魚焼き器」
ハクの暴言に、十六夜の額にぴきりと青筋が浮いた。
「あんたこそね、ちゃんと仕事しなさいよ」
「もうやってる」
「え?」
言われ、諷香も空を見上げる。そして、異常なものを見た。
雨粒が、残らず巻き上げられて雲に吸い込まれていく。まるで時間を巻き戻したかのような不可思議な光景。だが、その流れに乗って確かに見覚えのある透明な魚が続々と集ってきている。
「多分、あれで全部だ」
青年の声で我に返る。そう、今度は自分の番だ。ちょうど準備も済んだ。
調節しておいた、残りの色を全てより合わせた紐を空へと力一杯投てきする。
ぶわり、と広がった紐の色は緋・蒼・金・銀・紫・橙・翠・藍・山吹。
広がった七色の糸は暗い夜空に虹をかけるように孤を描いた。
「泡沫より出でし者よ」
虹の糸が、諷香の呪文に応えて網のように広がる。シャンシャンと絶え間なく鳴る鈴の根の合間で、ハクが小さく感嘆の口笛を吹いた。
まるで巨大な手毬を作るように、伸びた色とりどりの紐はそれぞれが球を描いて雲を捕える。
今や耳をつんざかんばかりに響く鈴に負けじと諷香は腹から声を出す。
「緋は理(ことわり)・蒼は現(うつつ)・金は真実・銀は証(あかし)・紫(し)の門を閉じ・橙(とう)を崩し・翠と藍は螺旋を紡ぎて山吹を散らす」
雲が――否、その奥に蠢く大きな魚の影が苦しそうに蠢動する。だが、諷香は容赦しない。
「縛楔(ばくせつ)零式・虹綴り」
結界が完成し、大気を覆っていた妖気が目に見えて激減した。それに合わせ、十六夜が跳躍する。
諷香の手から伸びた糸。そのか細い足場に着地した少女は、軽業師も顔負けの身軽さで再び跳躍。
宙に身を躍らせた彼女が半身を捻る。まるで抜刀するかのように腰に添えられた手。その先から、本当に真紅の刀が顕現した。
「でぃ…やああああああああああ!」
少女らしからぬ雄叫びと共に十六夜が刀を振りかぶる。降魔の赤光が吹き上がり、緋色の軌跡に沿って空が割れた。



はらはらと火の粉が舞う中で、ふとハクは隣に立つ少女に顔を向けた。
妖を祓えたことにか、それとも変わらぬ幼馴染の姿を見てか、眩しそうに目を細めて空を見上げている少女。
頭一つほど低いその頭に、気になっていたことを問いかける。
「なあ、あんたなら一人でも封印出来たんじゃないか?」
確かあの妖魔は、初代が七日七晩かけて封印し、その上で神社を建てたという。
それを一人で、あそこまで弱めることが出来たのだ。しかるべき道具と条件が揃えば、けして不可能ではなかったのではなかろうか。
だが、諷香は控えめな微笑を浮かべて首を振った。
「そんなことはないですよ。さっきも言ったように、私一人では親を封じるだけで手一杯。その後まで戦うことは、とても無理でしたから」
「ああ、そ」
一応の納得を見せ、地面に降り立った十六夜の元に向かうハクに諷香は笑みを浮かべる。
遠目からでもわかる言い争いを始める二人に、そっと諷香は呟く。


「いっちゃん。あの約束はいつでも受け付けてるからね」








ツイッターにて募集した『#いいねした人を自分の世界観でキャラ化する』タグより。
第4作目は、サイトでも相互リンクしてくださっている秋待諷月さんをキャラ化したものになります。
なお、私がツイッターでお作りしたキャラさんは
『稲荷様に仕える若巫女。唄と舞を使った結界術の使い手。
真面目で固い仕事をするため、情報屋をはじめ、番や同業者からの信用は確か。黒月と親交があった。
地元の美味しいお店によく案内してくれる』
です。最初は地元の美味しいお店関係でネタを考えていたのですが、よくよく考えたら十六夜ダメじゃん!!と気づいて結界術の方に焦点を当ててみました。
十六夜がまだ明るかった時…と考えてたら、本編の時間軸となり、結果的に何かもう一人ついてきました。こいつらのやり取りのせいで長くなった気がしなくもない…(遠い目)。
……とか言ってたら、何と秋待さんがイラストを描いてくれたよ!!。

うへへ、可愛いですね。しかも美しいですね。イメージぴったりで、ニヤニヤしてしまいました。
秋待さん、ありがとうございました!。





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